語り:大杉漣
プロデューサー:髙橋卓也 監督・構成・撮影:佐藤広一
証言協力:井山計一 土井寿信 佐藤良広 加藤永子 太田敬治 近藤千恵子 山崎英子 白崎映美 仲川秀樹
企画・製作:認定NPO法人 山形国際ドキュメンタリー映画祭 映像提供:山形放送 協力:山形大学社会科学部付属映像研究所
音声技術:折橋久登 整音:半田和巳 製作助手:稲田瑛乃 宣伝美術:菅原睦子 玉津俊彦 協力プロダクション:ZACCO 製作協力:大久保義彦 成田雄太 オフィス佐藤
配給:アルゴ・ピクチャーズ 配給協力:MAP
(2017年/日本/67分/カラー(一部モノクロ)/DCP・Blu-ray/16:9)
©認定NPO法人 山形国際ドキュメンタリー映画祭
上映ベルの代わりにジャズの名曲「ムーンライト・セレナーデ」が流れると、暗がりの中で大好きな映画が始まる……。「西の堺、東の酒田」と称された商人の町・山形県酒田市に、映画評論家・淀川長治氏が「世界一の映画館」と評した伝説の映画館、グリーン・ハウスがあった。回転扉から劇場に入ると、コクテール堂のコーヒーが薫り、バーテンダーの居る喫茶スペースが迎える。少人数でのシネサロン、ホテルのような雰囲気のロビー、ビロード張りの椅子等、その当時東京の映画館でも存在しなかった設備やシステムを取り入れ、多くの人々を魅了したそこは、20歳の若さで支配人となった佐藤久一が作り上げた夢の映画館。だが、多くの家屋や人々に被害をもたらした1976年の大火災・酒田大火の火元となり、グリーン・ハウスは焼失してしまう。それから40年余りの時を越えた今、「ムーンライト・セレナーデ」が流れるあの場所へかつて集った人々が、煌めいた思い出をもとに言葉を紡いでいく……。 2018年2月に急逝した名優・大杉漣氏のナレーションにのせて贈る、忘れ難い場所を心に持つ人々の証言集。



生きることの悩み、苦しみ、悲しみ、そして喜びなどの一切の縮図が映画館の中に繰り広げられる。
このような映画の内容から例えどんなにささやかでも、
みんなが倖せになるための種子を摘みとって頂ければ私達の喜びはこれに過ぎるものはない。
私は映画が皆さんから強い共感を得られたほど幸福なことはない。
私はこの幸福を味わいたいためにもよりよい映画を、
そしてよりよい環境を創り出す仕事に今後も全力を尽くしていきたいと思っている。
緑館支配人 佐藤 久一
(1958年5月発行「グリーンイヤーズ」300回記念号より抜粋)

1930年、山形県酒田市出身。日本酒醸造元「金久酒造」を経営する名家で生まれ育つ。20歳で大學を中退し、父が経営していた映画館「グリー
ン・ハウス」支配人に就任。就任当時業績不振だった「グリーン・ハウス」を上映作品の吟味、新たな映画作品をかける度に「グリーンニュース」(後のグリーンイヤーズ)という無料の小冊子の発行、古い建物を大改装する等努力を重ね、洋画専門館として知る人ぞ知る存在となっていく。中でも、映画評論家の淀川長治氏と荻昌弘氏は繰り返し足を運んでおり、淀川氏は「グリーンイヤーズ」の300回記念号で「私の拍手」というタイトルの原稿で「こんな館を持つ酒田が羨ましい」と絶賛している。また、1963年の週刊朝日では「あれはおそらく世界一の映画館ですよ」と淀川氏が記したことにより、全国的に「グリーン・ハウス」の名前が知れ渡ることとなった。


1951年、徳島県出身。74年に太田省吾率いる転形劇場に入団。「水の駅」をはじめ一連の" 沈黙劇シリーズ" などで演技力を磨く。80年、高橋伴明監督の『緊縛いけにえ』で映画デビュー。88年の転形劇場解散後も舞台、映画、TVへの出演を続ける中、北野武監督作『ソナチネ』(93)のヤクザ役で注目を浴び出演作が増え、北野監督の『HANA-BI』(97)や『犬、走る DOGRACE』(98 /崔洋一監督)などの演技でキネマ旬報、ブルーリボン賞、日本アカデミー賞など多数の助演男優賞を受賞。以降は映画、テレビドラマに欠かせない名脇役として、また時には主演俳優として、超大作から学生の自主映画まで幅広く活躍。2018年2月、惜しくも急逝。主な出演作に『ポストマンブルース』(97/SABU 監督)、『エクステ』(07/園子温監督)、『ネコナデ』(08/大森美香監督)、『蜜のあわれ』(16/石井岳龍監督)、『シン・ゴジラ』(16/庵野秀明・樋口真嗣監督)、『アウトレイジ 最終章』(17/北野武監督)、『恋のしずく』(瀬木真貴監督)など。2018年10月6日より主演・プロデュース作品『教誨師』(佐向大監督)が公開。2013年の山形放送開局60周年記念ラジオドキュメンタリードラマ「港町の幸福な昭和〜日本一と世界一を酒田から発信した男〜」への出演がきっかけとなり、本作へのナレーション参加につながった。
1977年生まれ、山形県出身。1998年、第20回 東京ビデオフェスティバル(日本ビクター主催)にて、短編映画「たなご日和」でゴールド賞を受賞。監督作に、「隠し砦の鉄平君」(株式会社BBMC)、DVDドラマ「まちのひかり」(特定非営利活動法人 エール・フォーユー)がある。ドキュメンタリー映画「無音の叫び声」(16/原村政樹監督)、「おだやかな革命」(17/渡辺智史監督)、「YUKIGUNI」(18/渡辺智史監督)では撮影を担当。
Director’s Comment元を辿れば本作は、山形国際ドキュメンタリー映画祭2017で上映される短編作品として、映画祭自らが企画しました。監督を引き受けて取材を重ねていくうちに、「これは短編に収まるような題材ではない」ということに思い至り、長編化を提案しました。映画祭の高橋卓也プロデューサーが快諾してくれたこともあり、取材は続きました。その後も取材先で元チケットガールの山崎英子さんを紹介してもらうなどの幸運に恵まれました。
私自身、もちろん酒田に伝説の映画館があった、しかも大火の火元になったということは知っていました。しかも山形の映画関係者に大きな影響を与えているということも。この機会にきちんとまとめなければいけない、という思いを強くしました。映画祭事務局でも地元新聞社を通じて当時の資料募集を呼びかけるなど、この映画制作に大きな期待を寄せてくれました。「世界一の映画館と日本一のフランス料理店を山形県酒田につくった男はなぜ忘れ去られたのか」(講談社刊)の著者・岡田芳郎さんからは何度もアドバイスを頂き写真も提供して下さいました。
さらには名優・大杉漣さんがナレーションを引き受けてくださるという大きな幸運にも恵まれました。酒田と大杉さんとのつながりが、山形放送のラジオ番組で既にあったこと。大杉さんと懇意にしているシネマ・パーソナリティーの荒井幸博さんが山形にいたこと。16年前、大杉さんが主演する自主映画に私がスタッフで参加していたこと、などの巡り合わせがあって実現にこぎ着けられたように思います。
ナレーション収録時に大杉さんから、「心ある丁寧なドキュメンタリー作品」と本作を評して頂き、ここに辿り着くまでの過程を労ってくれました。いま思い返しても、感謝の思いでいっぱいです。
「実は酒田には、まだグリーン・ハウスが存在しているのではないか」と思わせるほどの鮮明な記憶と愛情に満ちた証言の数々が、この映画には収められています。

井山計一
1926年(大正15年)生まれ
日本を代表するカクテル「雪国」を考案した伝説のバーテンダー。
「雪国でもらったトロフィーを、久ちゃんがグリーン・ハウスに飾るからって持っていって、1年間返ってこなかった(笑)」※久ちゃん(元 グリーン・ハウス支配人 佐藤久一)

土井寿信
1956年(昭和31年)生まれ
グリーン・ハウスで「タワーリング・インフェルノ」を2回観た元消防士 。
「消防士として頑張ろう、と思わせてくれた映画館が大火の火元になったのは、残念で因果的な出来事でした」

佐藤良広
1958年(昭和38年)生まれ
映画サークルあるふぁ'85
「バレーボール部だったんです。部活がおわったらすぐ、グリーン・ハウス!」

加藤永子
1949年(昭和24年)生まれ
かつてグリーン・ハウスに通いつめた映画ファン 。
「グリーン・ハウスに朝から行って夕方まで、何回も同じ映画をぐるぐる観てました」

太田敬治
1931年(昭和6年)生まれ
元 グリーン・ハウス映写技師。
「スクリーン脇にその日の映写担当者の名前を出したのは、この辺じゃ初めてじゃないかな」

近藤千恵子
1949年(昭和24年)生まれ
ティーギャラリー サライ経営者。
「酒田はグリーン・ハウスで出していたコクテール堂の珈琲豆を、町内のお店でもみんな使っている不思議な街」

山崎英子
1933年(昭和8年)生まれ
元 グリーン・ハウス従業員(チケットガール)。
「スクリーンの前いっぱいに生花を飾ったり、あそこまでお金をかける映画館はなかった」

白崎映美
1962年(昭和37年)生まれ
歌手(白崎映美&東北6県ろ~るショー!!)
「グリーン・ハウスは憧れの場所。いまでもお洒落で高級だったイメージがある」

仲川秀樹
1958年(昭和33年)生まれ
日本大学教授・博士(社会学)
「東京、酒田同時ロードショーというのは、(当時)地方都市に住む高校生としては、ある種の誇りというか、プライドのようなものがありました」
山形県の北西にある人口約11万人の市。庄内北部の都市である。庄内空港と山形県唯一の重要港湾酒田港がある。この地には平安時代朝廷が出羽国の国府として築いたと考えられる城輪柵跡があるように、地域の歴史は古い。酒田の街は袖の浦(現酒田市宮野浦)に移り住んだ奥州藤原氏の家臣36人が、1521年頃最上川の対岸に移り、砂浜を開拓し作ったと言われる。袖の浦は中世には貿易の中継地だった。1672年、河村瑞賢が西廻り航路を整備すると、酒田はますます栄えるようになり、その繁栄ぶりは「西の堺、東の酒田」ともいわれ、秋田の外港土崎湊と並び、羽州屈指の港町として発展した。日本永代蔵に登場する廻船問屋の鐙屋(あぶみや)や、戦後の農地改革まで日本一の地主だった本間家などの豪商が活躍し、町は三十六人衆という自治組織により運営されていた。元禄2年6月13日(1689年7月29日)に松尾芭蕉が奥の細道で訪れている。
1976年(昭和51年)10月29日に山形県酒田市で発生した大火。この火災で酒田市中心部の商店街約22万5000m2を焼失した。一般市民に犠牲者は無かったが、酒田地区消防組合の消防長1名が殉職した。戦後4番目の大火である。「グリーン・ハウス」が火元となり、すぐに観客20名は避難したが当日の酒田市は風が強く、またたく間に隣接していた木造ビルや木造家屋に燃え広がった。 日付が変わった30日の午前3時には火勢は新井田川まで迫ったものの、対岸からの直上放水実施や降雨の影響で延焼を食い止めることが出来たことにより、午前5時に鎮火した。
ジャズのスタンダード・ナンバーのひとつ。1939年にトロンボーン奏者のグレン・ミラーにより作曲されたスウィング・ジャズの代表曲のひとつであり、グレン・ミラー楽団のバンドテーマとなっている。オリジナル・アレンジはクラリネットをフィーチャーしたビッグバンドのスローナンバーであるが、のちに様々なアレンジで多くのバンドによりカバーされている。映画『スウィングガールズ』(04/矢口史靖監督)の演奏シーンにも登場した。
戦後間もない1949 年に虎ノ門にオープンしたコーヒー豆の焙煎メーカー。現在は東京・虎ノ門の本社、山梨・韮崎の焙煎工場で日本で唯一のエイジングコーヒーを製造・販売している。父に同行してロシア人宅に滞在したとき、創業者の林玄は毎朝飲むオールド・ビーンズコーヒーの虜となる。帰国して終戦を迎えた玄はそのコーヒーを商売にしようと思いたち、後のエイジングコーヒーが誕生した。
1989年に山形市政100周年を記念して第一回が開催され、当時、山形県上山市牧野村で活動していたドキュメンタリー映画監督の小川紳介監督が準備段階から関わり、山形県内各地の有志が参加。以降隔年で山形市で開催し、国際交流基金による2006年度国際交流奨励賞・文化芸術交流賞受賞。ドキュメンタリーのための映画祭ではアジア地域で初のもので、アジアを中心に世界中の映画作品や監督が集まる交流の場となっている。コンペティションは、インターナショナル・コンペティション部門と、アジアのドキュメンタリー作品を対象としたアジア千波万波部門がある。
昭和20年代、娯楽に飢えた日本人は争って洋画を観た。衣食住すべてを失った大衆にとってそこに描かれた物語だけが希望であり、救いであったからだ。アメリカ映画を観た人々は「自由と豊かさの象徴」としてのアメリカに憧れ、いつかスクリーンの中のような暮らしをしたいと夢を膨らませた。映画館は娯楽の伝道であるばかりでなく、人々に前に向かって進むエネルギーを与える役割も果たしていたのである。
戦後、日本人が洋画を観られるようになったのは、1946年(昭和21年)1月にアメリカ映画輸入のためのセントラル映画社(CMPE)が、GHQの外郭団体として設立され、同年2月28日に、『キューリー夫人』と『春の序曲』が、封切り館で公開されてからである。当時、映画館は常に超満員状態で、入館のために長時間行列をすることや立ち見になることは当たり前であり、客席に入りきれない人々が廊下で辛抱強く次の上映回を待つ光景も、珍しいものではなかった。そこで、東京・有楽町の駅前に1946年(昭和21年)の大晦日に、アメリカ映画封切り館として開館したスバル座は一計を案じ、翌年3月、「帝都唯一のロードショウ劇場」という謳い文句で、装いも新たにスタートしたのである。
スバル座は全館座席指定、各回入れ替え制という新システムを導入した。これが予想以上の人気を呼び、入場料金は25円(一般映画館は10円)と割高だったが、人々は映画をじっくり楽しむために高い料金を払うことを厭わなかった。当時、映画館とは流行発信基地であり、とくにアメリカ映画を観ることは、最新情報を仕入れるために必要不可欠なことだったからである。スバル座の入り口は、広い階段を上った先のアプローチスペースの突き当たりにあり、ベージュ色のモダンな外装とシンプルな内装がアメリカ的な匂いを発散していた。スバル座の成功以降、続々と名乗りを上げたロードショウ映画館は、デートはもちろん、お見合いの待ち合わせの場として利用されることもしばしばであった。
グリーン・ハウスは、スバル座とは何から何までおよそ比較にならなかった。久一は陣頭指揮をとり、グリーン・ハウスの大改装に取り組んでいく。入り口を回転ドアにしたのは久一自慢のアイディアである。当時回転ドアは東京や大阪のホテルなどでしか見かけなかったが、そこに久一は目をつけたのだ。舞台の縁には、季節の花が咲き誇る鉢が上手から下手まで隙間なく並べられ、館内には常に快い花の香りが漂っている。客席のむき出しの板壁をグリーンの滑らかなビロードで覆うと、グリーン・ハウスは見違えるような豪華な空間に変身した。
あるとき久一は、開映のベルの代わりに「ムーンライト・セレナーデ」を流すことを思いつく。場内の休憩時間表示が10分から5分、4分と変わっていくとムーンライト・セレナーデが流れだし、その音量が次第に小さくなるのに合わせて、グリーンの緞帳が静かに上がる。ステージ右端の生け花と左端の白い女性の像のスポットライトだけが残り、それも消えるとレースの幕がするすると開き、スクリーン上に映画が映し出される。酒田の人々に映画を最高の状態と雰囲気で観てもらうことに、久一は心を砕き続けたのである。
「世界一の映画館と日本一のフランス料理店を山形県酒田につくった男はなぜ忘れ去られたのか」(講談社刊)より抜粋/著・岡田芳郎
※スバル座は『アメリカ交響楽』上映でオープン。日本で初めて「ロードショウ」という単語を使用した映画館とされる。アメリカ映画を数多く上映し、客足を集めたが、1953年(昭和28年)に火災で焼失してしまう。それから13年後の1966年(昭和41年)に現在の「有楽町スバル座」として復活を果たす。